【公演レポート】センチュリー豊中名曲シリーズVol.32「名残」
2025年01月10日
文筆家・評論家・音楽ファンなどそれぞれの視点から、主催公演を実際に鑑賞して記されたレポートをWEB上で共有するコーナー。2024年度のセンチュリー豊中名曲シリーズ2回目の公演「散歩する星」のレポートが、音楽ライターの逢坂聖也さんから寄せられました。
―2024.12.7(土) 15:00開演 豊中市立文化芸術センター 大ホール
12月7日、豊中市立文化芸術センター大ホールで川瀬賢太郎指揮、日本センチュリー交響楽団の豊中名曲シリーズVol.32を聴いた。コンサートと物語のコラボレーションも3年目中盤。回を重ねるごとにいろいろな面白さが見えてくる。『名残』というテーマのもとに、イベール、ラヴェル、シューマンを取り上げるプログラムに、劇団幻灯劇場代表の藤井颯太郎氏が同題の物語を添えた。
それにしても「名残」とは何だろう。歳をとってくると自分なりの“名残”と呼べそうな思いも心の中に芽生えてくる。だが今日のプログラムに反映される「名残」とはどういったものなのだろう。そんな風に考えながら会場に足を運ぶと、藤井氏が書いた物語の朗読パフォーマンス『声の展示』が始まっていた。“トマソン”と呼ばれる、本来の目的を失い不要となってしまった建造物(注※)。街中でそれを発見しては喜ぶ、主人公たちの幸福に満ちた時間とその終わり。そしてそこからの再生を描いた物語だ。友人の死によって否応なく現実の時間へと引き戻される彼らの姿に、自分自身の青春の「名残」を重ねる人もいるのではないか。そんな気がした。
プログラムノートを見ると、この『名残』という物語は藤井氏が初めて、当日演奏される音楽の曲想からイメージを膨らませて書いた作品だという。これまで様々なやり方を試してきたが「曲想から物語を書いてみる」ことだけは避けてきたと藤井氏は語っている。その理由として藤井氏は「言葉以上の広がりを見せてくれるのが音楽の美しさなのに、僕が書く小説で音楽の解釈を狭めてしまうのは勿体無いと思った」と続けるのだが、果たしてそうだろうか?今回の物語はコンサートにとてもふさわしいもののような予感がしたし、コンサートを聴き終えてもその印象は変わらなかった。言葉と音楽がさりげなく共振し、それぞれの世界を膨らませている。私は藤井氏が“曲想から書いた物語”をもっと読んでみたいと思った。
そうした共振の面白さは2曲目、ピアノに務川慧悟を迎えたラヴェルのピアノ協奏曲に現れた。バチッという鞭の音から始まるおもちゃ箱をひっくり返したような音楽。藤井氏の物語と「声の展示」は、そんな音楽と実にうまくかみ合っていたように私には思えたのだ。各楽器がそれぞれの魅力を主張するような色彩感の中を、務川のピアノが駆け抜けてゆく。それはピアノとオーケストラが名人芸を競い合うような19世紀的な競奏のかたちではなく、全体で大きな1つのアンサンブルを創り上げるモザイクのような音楽だ。この斬新なフォーマットはラヴェルの作曲技術と遊び心が高度に結実したものと言えるだろう。指揮の川瀬賢太郎はすでに多くのタイトルを持つ指揮者だが、瑞々しく生気に富んだ音楽創りはデビュー当時からの変わらない魅力だ。川瀬、務川、センチュリーの3者がラヴェルの遊び心の部分にぴたりと照準を合わせ、作曲家のこだわりを存分に引き出した演奏に客席は沸き、大きな拍手が起きた。熱気に包まれた会場に務川のアンコール曲「妖精の園」(ラヴェル:マ・メール・ロワより)が、まどろむような美しさで響いた。
そして後半のシューマンが素晴らしい演奏だった。第3番『ライン』は比較的取り上げられる機会も多い作品だが、私にとっては今回の『ライン』がきっと長く心に残るものとなるだろうと思った。この曲はシューマンの最後の交響曲である。デュッセルドルフの音楽監督に迎えられ、希望に溢れた彼の心情を映し出したような作品だ。第1楽章「生き生きと」から、川瀬は悠然と音楽を開始。初々しさすら感じられるほどの生命力の中に、一定の緊張感を込めながら響きを作ってゆく。それは滔々と流れる雪解けの水が、大きな川の流れとなって流域を満たし、やがてケルン大聖堂を過ぎて海に流れ込んでゆく光景であったかも知れない。いや、しかし、そんなことを音楽は描いていただろうか、指揮者はそんなことを語っただろうか。違うような気がする。私が聴いていたのは、ただ過ぎ去ってゆく音の1つ1つ、もしくは重なり合う響きの1つ1つであったように思う。過ぎ去ることを自明としながら、その一瞬にもっともふさわしい響き。その一瞬にしか生まれ得ない響きを愛おしむように、この時、川瀬とセンチュリーは奏でたのだ。だからこそ、第5楽章で再び「生き生きと」音楽が始まった時、私は言葉にできない高揚を心の中に感じたのだと思う。
そう考えてみるとありとあらゆる音楽は、その中に1つの「名残」を宿しているもののようにも思えてくる。1つの音、一連の音階、ひとかたまりの響き、それらはすべて過ぎ去るものであるけれど、一瞬のうちに私たちを失われた時間の中に連れ戻す。失われていたはずのものが輝きを帯び、そしてもはや失われてはいないことに気づかせてくれる。だから私たちはいくつになっても音楽を聴くのだろうと思う。この日はアンコールとして、ヤン・ヴァン・デル・ローストのカンタベリー・コラール(弦楽合奏版)が演奏された。敬虔さを讃えた響きが、次第に楽器の数を増やしながら盛り上がり、また静まってゆく。これもまた1つの名残であるかのように、過ぎてゆく時間を慈しむ味わいに満ちた演奏だった。
注※:街中などにあってかつては意味があったかも知れないが、それを失い、無用の長物のまま保存されている建造物。美術家、小説家であった赤瀬川原平、イラストレーター、南伸坊、編集者、松田哲夫らによって提唱された概念。1981-82年に読売ジャイアンツに在籍し、四番打者も務めながら「三振王」と呼ばれたゲーリー・トマソンに因んで命名された。
逢坂聖也
音楽ライター。大学卒業後、情報誌『ぴあ』へ入社。映画を皮切りに各種記事を担当する。現在はフリーランス
としてクラシック音楽を中心に音楽誌や情報サイト、ホールの会報誌などへの執筆を行っている。豊中市在住。